終戦八十年
本年の年頭の言葉は「終戦八十年 昭和百年」です。
本年、我が国は大東亜戦争終戦より八十年目の節目の年を迎えます。
亡き師は予科練卒業、特攻隊の生き残りでしたので、私が第2次世界大戦とか太平洋戦争という言葉を使うと、
そんな言葉を使うな、大東亜戦争と言えといつも言っておりました。
戦争で散華した兵隊達は、大東亜の平和のために命を懸けたのであって、けっして第2次世界大戦とか太平洋戦争で死んだとは思っていない。
英霊に祈るとき、第2次世界大戦で戦死したなんて言っても、英霊には伝わらない。
そもそも、そんな言葉は戦争中にはなかった、後世、誰かが勝手につけたインチキな名前だ。
真の日本人であるならば、そんな呼び名は使わず、大東亜戦争と言えと、戦争を体験した世代として、弟子の私たちに、そう伝えておりました。
その大東亜戦争が終わって、八十年を経たのが今年の日本なのです。
我が国の平和を願って戦場に赴き、散華された英霊に恥じぬ生き方を、いま我々はしているのでしょうか。
はなはだ疑問に思われます。
特に安倍晋三首相が暗殺された後の政治家達のていたらくぶりには強い怒りをおぼえます。
怒りの根幹には、なぜ政治家の多くに「国家観」がないのか、ということがあります。
日本を国家たらしめているのには、まずは皇室のご存在が欠かせません。
今年は神武天皇の即位を紀元とした皇紀2681年です。
その歴史の中に、日本の文化や精神性が培われました。
ですから日本の場合の国家観というものは、この長い時の流れを包摂し、なおかつ、事柄として歴史のお勉強だけをするのではなく、身命を賭して我が物として体解して、はじめて本物の国家観が得られるというものだと思います。
こうした国家観がないのは政治家ばかりでなく、経済人の多くにも同じ傾向がみられます。
経団連の会長の話など、いったいどこの国の人が、どこの国の国益を優先して発言しているのか、正気を疑います。
このような国家観なき政治家や経済人の支配する状況は最悪です。
だいたい、三十年もの長きに渡って、平均的収入が伸びない国なんて、政治家と経済人の無能さによって、多くの国民の本来得るべき富を搾取されているわけで、これで暴動のひとつも起きないなんて、実に平和ぼけして牙を抜かれた国民だなと思います。
しかし、やっとここに来て、少しはこうした事実に気づき、目覚めはじめた人が出てきたのは良い兆候です。
正しい国家観をもって、日本のために働く政治家や経済人を応援し、そうでない人間には退場願える世の中にしましょう。
そのためには、一人一人がまずは自分の身を正し、国家観とは何であるか、きちんと自分で考えて、それに基づいた行動、生き方をしましょう。
それが大東亜戦争で散華された英霊の魂に報いる行為です。
彼らがみたくても、みられなかった未来を作るのは、いまを生きる我々なのです。
以上をもって、終戦八十年の本年を生きる目標としたいと思います。