恩師 渡邉妙子先生

 In 刀剣, 師範

令和6年2月24日、佐野美術館理事長であり、私の刀剣鑑定の師である渡邉妙子先生が亡くなった。
先生とは2010年(平成22年)4月開講の佐野美術館「日本刀初心者講座」を私が受講したことで、ご縁がはじまった。
当時の私は、武用としての日本刀のことはある程度理解していたつもりだが、日本刀を観ること、つまり観刀や鑑定には通じていなかった。
そして一般論として、武道の人は刀の見方を知らないし、鑑定の人は刀の使い方を知らない、どちらかに偏り、両方できる人の少ないことに疑問を抱いていた。
また、いくら本で勉強して、美術館で刀をみても、刃文や地鉄の見方をはじめ、沸や砂流し、映りなど、何となく分かったような気がするだけで、確信が持てないことに気がついていた。
さらに、以前何度か通った鑑定会では、おじさん達が派閥を作って雰囲気が悪く、鑑定刀も新刀や新々刀ばかりで、つまらなくなってすぐに辞めた。


そんなわけで、勉強するなら一流の先生につかなければならないと思い、渡邉先生の講座を受講することに決めた。
それから約14年間、毎月先生とお会いして、五振りの刀を鑑定し、入札して、先生の薫陶を受けた。
その中でも最も印象に残る先生のお言葉は、「名刀とは品格の高さである」ということだ。
斬れ味鋭い刀、号がついて有名な刀、高値で取引される刀など、いろいろあるが、それだけでは名刀とは言えない。
名刀には、必ず品格が伴っており、気高いものだ。
鎌倉時代には名刀が多く作られた。
鎌倉武士は荒っぽく、田舎者で下品だとの見方もあるが、初期はともかく、中期から後期にかけての鎌倉武士は教養も身に付け、禅にも通じ、自己研鑽していたはずだ。
それに呼応して、刀鍛冶も、そうした境地にある武士の求めに答えるべく刀を鍛えた。
その結果として、鎌倉時代には、武士の品格と刀鍛冶の品格が互いを高めあって、後に名刀と呼ばれる多くの刀が作られたのだ。
先生が大好きだった佐野美術館所蔵の重要文化財「新藤五国光」の短刀は、刃長八寸(約24センチ)のとても短い刀だ。
鎌倉武士は、この八寸の短刀を常差しとして、いつも肚の前に差していて、いざという時には、これで首の頚動脈を斬って自害した。
切腹以前の武士の、武士としてのけじめの付け方である。
常に武士と共にあり、自分の命を捨てる時に使うと覚悟して腰に差す刀は、その覚悟に沿う機能だけではなく、美しさも身に付けていなければならない。
美しく生き、美しく散ることが武士の誉れなのだ。
先生はいつもそのようにおっしゃっていた。

また「元祖刀剣女子」とも呼ばれた先生は、「刀剣乱舞」がはやり、刀剣女子と言われる女性達が多くなってきた頃から、私たちには「女性が多少ミーハー的に刀剣に興味を持ちだして、美術館に来るようになったからと言って、批判的に見るのはおよしなさい。刀剣界の先輩として、おおらかに接してください。最初はミーハー的でも、残る人はきちんと刀剣に向き合うはずです。それに、数年前を思い出して御覧なさい。刀剣の展覧会をやれば、来るのはおじさんか、お爺さんばかりで、展示室で大声で頓珍漢な自説をまくしたて、あれを見たら、刀剣界のお先は真っ暗だと思いました。それに比べて、今の刀剣女子達はちゃんと勉強もしているし、大声で話すこともなく、きちんと列に並んで秩序立っています。だいたい、女性が多い方が美術館が華やかになってよろしいじゃないですか。」と、おっしゃっておりました。

先生の号は「泉山」であり、私たち門弟の鑑定会は「泉山会」とよぶ。
これは戦後の刀剣界において最も重要な人物である本間順治先生の号が「薫山」であることに由来する。
私は薫山、泉山両先生につづく者として、若輩で至らぬ身ながら、両先生に恥じぬよう己を磨き、日本刀の魅力と素晴らしさを品格を伴って伝えていかれるよう、今後も精進する覚悟で参ります。
末筆ではありますが、渡邉妙子先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
南無大師遍照金剛

日本武徳院
師範・剣士 黒澤龍雲