鉄舟居士の墓にまいる
先日、尊敬する山岡鉄舟居士の墓にまいった。
その時に全生庵の住職にお目にかかるご縁があったので、手元にある鉄舟関連の本をいくつか読みなおした。
その中で最も印象に残ったのが、臨済禅の老師であり、直心影流の剣士でもあった大森曹玄師が書いた文章で、心ある武道家には戒めとなる言葉であると思う。
少々長くなるが引用したい。
剣道の大家は剣をとって道場に立っている間は、わが身を忘れ寂然無物の境にいると思う。
だから境涯も練れて相当高い心境を得ている人も多いのである。
けれども鉄舟のように「語黙動静、一々真源」の境を得られないのは、江川の玉乗り(見世物のこと)と同じで、その一事についてのいわゆる「事三昧」を得ているだけで、その根源についての省察と把握が足りないからである。
したがって足一歩道場を出ると、とたんに有物の凡境に迷いこんでしまうのである。
相当の大家でありながら、終生二元相対の境を脱しきれず、つねに胸中を優劣勝敗の念が去来しているのは、そのためではないか。
頭山翁(頭山満のこと)は「幕末三舟伝」中に、猫と鼠と一緒になって遊び戯れているような境地がなければいけない、という意味のことをいわれているが、武道家には得てしてそうなれずに、一生鼠を追っている猫のような人が多いようである。
それは畢竟「事三昧」は得ているが、「王三昧」を得ていないためである。
~大森曹玄著「山岡鉄舟」
厳しい言葉であるが、見世物と武道との違い、つまりは「事三昧」と「王三昧」の相違点をはっきりと指摘され、その差異が明確になっている。
事三昧は、事の表面、目に見える現象に注目して、できた、できないなど相対境に迷う段階で、それに対し「王三昧」は表面ではなく、その根源に着目し、本質を掴む境地を指す。
当然それは二元相対の境を脱し、猫と鼠と一緒に遊び戯れているような、いわゆる「遊戯三昧」の境地でもある。
当節もyoutubeなどをみると、日本刀でボールやら食べ物などを斬っているヤカラがいるが、これなどは、いくらその切れ味がよかろうと、「事三昧」の最たるもので、どこまでいっても見世物の類いである。
武道とは、武によって道を究めるもので、そのためには根源についての省察と把握が必要だ。
では、その根源とは何であるか。
私はそこをはっきりと把握するために、仏教が大きな役割を果たしていると考える。
もちろん、これを書いた大森老師もそうだろうし、鉄舟居士も同じだと思う。
なぜなら鉄舟居士はこう書いている。
「余がいわゆる剣法の真理は、万物大極の理を究むるものだからである」
ここまでいくと、正しくそれは「悟り」であり、武道家たる者はこの境地を目指さなければ本物ではない。
もちろん自分は未熟者で、いまだその境地には至らないが、鉄舟居士の残した言葉を信じて精進するのみである。
その決意を鉄舟居士の墓前で誓ったのであった。
殺活自在流創始