Ph-06
By butokuin_adm
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Ph-062016-12-052016-12-05https://butokuin.jp/wp/wp-content/uploads/2017/05/logo_blk.png日本武徳院https://butokuin.jp/wp/wp-content/uploads/2017/05/logo_blk.png200px200px
剣士・黒澤雄太氏の演武をはじめて目にしたのは、故・赤塚不二夫氏の文部大臣賞受賞記念のパーティの席だった。昔から「チャンバラ」(と云うと大変失礼だが)が大好きなぼくは、その演武に魅せられた。ザワつくパーティ会場の中、黒澤氏のまわりの空気だけが、ピンと張りつめられていた。
その二年後、ぼくは黒沢明監督の名作映画「用心棒」漫画化する事になった。大好きな映画だが、刀を使った立回りが作品のキーとなる。迫力のある殺陣を描きたい!そこで思い浮かんだのが黒澤師範の演武だった。
黒澤氏はぼくの依頼に快く引き受けてくれ、ぼくは横浜の道場へ行った。真剣を使い、次々と畳表を切り抜く、黒澤氏の演武の迫力に感動した!
スタジオへ戻ったぼくは、そのイメージを燃やしつつ、主人公、三十郎の殺陣を描きまくった。
黒澤さん
道場設立20周年おめでとうございます。
日本刀の鑑定は武士の嗜み、それは武士の人格・品性を鑑定するための修練でもありました。
黒澤さんは、佐野美術館主催の日本刀講座を10年以上受講され、その鑑定の力量を着実に向上されてきました。
近年鑑定の心技体の調和が感じられます。
黒澤さん、道場設立20周年おめでとうございます。じつは私も人前に文章をさらすようになってほどなく20年になります。
私もこれまで『日本人の心のかたち』を求めて書いてきたように思いますが、黒澤さんには是非ともそれを実践的に示し、伝えつづけていただきたいと思います。
私のいる福聚寺の開山和尚が学んだ中国天目山の中峰明本禅師は、生涯「未悟の禅」と言い続けました。生き続ける以上、完成はないということだと理解しています。
中峰禅師は遺偈で初めて「生死を悟了せり」と書いています。
20年を一区切りに、今後も未完の活人剣を磨きつづけられることを念じます。
日本武徳院 殺活自在流剣法師範 黒澤雄太「龍雲」に捧げる祝いの言葉
今回承りますれば、道場設立20周年に当たるということで私に何か言ってもらえないかということですので、喜んで天竺の真ん中より喜びの言葉を申し上げます。
それにしても黒澤雄太「龍雲」が30歳で日本武徳院の道場をひらき、現在まで20年間~50歳のおん年まで頑張っておりましたことを、心から沙門天日秀嶺謹んでお喜び申し上げる次第であります。
激しい試斬も含む演武をフランス、スイスあるいはインド ナグプールなど海外でもおこない、あるいは国内でも各地で武道の真髄をひろめる運動を邁進してきておりますことを心より尊敬するものであります。
私は2009年、44年ぶりに帰国しました時、埼玉の無量寿院において、黒澤師範の奉納演武をはじめてみて感銘を受けました。
その時、あなたの眼が炯々と光っていたことをよく覚えております。
私は「龍雲」という名をあなたに授けました。
その後、2016年には、東京真成院において、大勢のかたを前にしての奉納演武を再見し、武士大道の錚々たる武者ぶりを拝見いたし、大変頼もしく思い、日本に武道廃れずと感激いたしました。
またその時に図らずも、「われ龍の如く、満月が龍雲の中に入り、龍雲は満月を迎えて渦をまき、龍は花が咲いたように雲をまとい、一体となる 満月の中に龍雲の中に」との想念がうかび、黒澤雄太「龍雲」の流儀の名前を「殺活自在流」と命名いたしました。
2017年には横浜道場に招待され、門弟たちの礼儀正しい稽古ぶりを観閲すると共に、今後とも武徳院が武道の本筋を生かし、龍が渦巻く満月のように技と心を向上させ、一門が龍の剣士のごとく世界にとび、龍雲に続くことを祈るものであります。
どうか黒澤雄太「龍雲」並びに一門の皆さま頑張ってください。
またインドにも遠征してきてください。
師範より奉納いただいた日本刀は、インドの地において立派に安置しております。
私のインドでの仏道は、生きるか死ぬか真剣勝負です。龍雲はじめ、武徳院の門弟たちも同じ真剣勝負の身です。
いつも私はそのことを思い浮かべると同時に、日本男児としての生を完徹するための 龍雲および武徳院院の門弟から奉納された日本刀を眼前にして、それを励みに80余歳の生命をかけて精進いたししているのであります。
武士道の本義を学ぶのが武道である。
葉隠にも書かれております「武士道というは、死ぬことと見つけたり」
このことを肝に命じて、私は今日も明日もこれから余命を頑張って生きる。
これをもって、20周年のお慶びの言葉になりましたことをお許しくさいませ。
南天竜宮城の沙門 天日秀嶺 2017年11月22日 好日
アイルランドの血もひく日本人にして音楽と
映画が好きな上に誕生日が自分と同じという
ロック兄ちゃん黒澤雄太氏の剣士としての姿
を見たのは某所での演武への列席を許された
ときのこと。その際、幸運にも真剣に触れる
機会を設けてくれた彼。生まれて初めて凶器
にもなり得るソレを手にし、身の引き締まる
想いに背筋が伸びた。自身を律する心のない
まま触っちゃいかんモノだとビビったっけ。
道場の師範として20年目を迎える黒澤雄太
肚の据わった御自由歳、お弟子さんと共に、
これからも靭く正しく気持ちよく!
日本武徳院、20周年おめでとうございます。
刀の名手としての黒澤雄太は強烈な経験である。
彼は緩められるのを待つ巻かれたネジであり、手にした刀と同じ位に研ぎ澄まされた思考回路を持つ往古の魂である。
私は彼の側で立ちながら詩を読んだ時、私達を包み込むような巨大なエネルギーを感じました。
あの瞬間、私はおののきました、
まるで獣のように美しく、そしてとても特別な何かの影の中に私達が包まれたような気がしたからです。
ここにいたのは恐らく彼の刀と一心同体であろう武士で、そしてその彼が目の前の藁束を斬り落とした時、私は生(なま)の力と上品さ、そして精密な自制心が存在する瞬間を目撃しました。
その後、彼は私にこう言いました。「斬ることとは、仏教徒としての振る舞いであり、神仏に捧げる務めです。」そして彼が正座をして、穏やかに刀を拭う姿に、私はこれぞ本物の技巧の達人だと驚嘆しました。
道場設立20周年おめでとうございます。これからも古の伝統である刀と共にある姿を熱心に示してくれますように。
To be in the presence of master swordsman Yuta Kurosawa is an intense experience. He is a coiled spring awaiting its release, an ancient spirit with a mind-set sharpened to the same degree as the sword he holds. I have stood beside him whilst reading a poem and felt a vast aura of energy surround both of us. In that moment I felt very timid, as if in the shadow of something very rare and brutally beautiful. Here was a would-be warrior at one with his sword, and as he struck the bamboo stave in front of him I witnessed an instant of raw power, grace and precise discipline. Afterwards he said to me: “To cut is a divine task, as it is a Buddhist work.” And as he sat, seiza-style, calmly cleaning the blade, I marvelled at this true master of his craft.
Congratulations Yuta on the 20th anniversary of your dojo. May the dedication you show to the ancient tradition of the sword be with us always.
Lyricist/poet Chris Mosdell
剣が単に人を斬るための道具にすぎなければ、それは150年前に
無用の長物と成り果て、剣を使った演武は古典芸能の域を出なかったであろう。
剣には、剣そのものに美を追求する要素があり、また使い手の精神面の強さや
美しさを映し出す鏡のようなところもあるように思える。
剣には、道具を超えた深いものがある。
その魅力に取りつかれ、剣を手にし、職にした人は、剣の歴史の重みを背負わなければならない。
それは、剣の未来をどう切り開いていくのかという責任を負うことでもある。
黒澤さんの剣は、そんな重圧をものともせず、無の境地でそれと向き合っている。
道場設立20周年のお祝いに寄せて。
黒澤さんとぼくは互いに肚に龍が棲む。
だから、気が合う。
極論を言えば、特段話す必要もない。
彼とはそういう関係である。
道場設立20周年ということであるが、祝いの言葉など彼は求めているのだろうか。
百尺竿頭進一歩
道を極め続ける身にとっては、日に新たに次なる一歩を見据え、歩み続けるのみ。
日本武徳院 黒澤雄太「龍雲」 先生
黒澤師範のお人柄に興味を持った事がきっかけでありましたが恐る恐る「稽古を拝見させて下さい」とお願いしたあの日。
仕事柄たくさんの方にお会いする私ですが、人から時々魂を感じる日常とはまったく異なり、見ている私の感覚にまずは魂だけがグサッと突き刺さり、黒澤師範の人となりはあとにそっとついてくる。
そんな不思議な光景でありました。
『一理に達すれば万法に通ず』
簡単ではありませんが、私もそこに達する何かを備えたいと強く思わせていただきました。
道場設立二十周年!心よりおめでとうございます。
剣士である黒澤雄太ですが、私には彼が剣士であることは関係がなく。
特筆したいのは、彼の人間好き、興味のあることには労を惜しまない行動力、でしょうか。その個性、真似しようにも出来ません。しませんが。
お互い、道半ばなので、邁進し、悟りの境地に至ろうと、そういう本質についての話が出来る人です。
以前黒澤さんの道場に伺った際、真剣を持たせてもらったことがあります。
鋭い刃先は長く、そして重く、刀はその形であるゆえに持つ人の所作を変えるのだと知りました。
道場は物によって引き出される人の可能性が見えてくる場なのではないでしょうか。
これから先もそれを伝えていってください。20周年おめでとうございます。
20周年おめでとうございます 私の真打昇進披露宴で黒澤さんには演武をして頂きました。
刀で四方八方に天地を加えた十方の魔を払うという意味合いがある「十方払いの儀」、刀を見てるとこちらも身の引き締まる思いでした
黒澤さんの刀には人を勇気付ける力があると思います
今後とも道場の益々の御発展を祈念しております
日本武徳院道場設立20周年、誠におめでとうございます。
現在でも「武士道」は、日本人の心の中に生きています。たとえばビジネスマンにも自身を武士あるいは侍だと気合を入れる人は多いのではないでしょうか。
ぜひ「武士道」の継承をお願い致します。
出会ったばかりの頃の黒澤師範はとてもやんちゃで
好奇心旺盛で、だけどどこか憂いのある表情が印象的だった。
剣をもち一瞬にして孤独を纏う。
礼をして去ったあと
ふと見せるあなたのやわらかな笑顔に
やんちゃなあの頃の姿を垣間見て思う。
追い求めてきた世界の中に今も生き足掻いているのだと。
孤独な鋭い眼光で何を斬り続けてゆくのか。
私はこれからもレンズを通して見つめていきたい。
数年前に表参道をブラブラしていて、黒澤さんと一緒に古い刀剣を見に行ったことがありました。
独特な重みのある真剣を実際に手にしてみて、刀剣自体の強烈なエネルギーに、自分の精神が試されているような気持ちになりました。
殺傷能力がある刀剣ときちんと向き合うには、”人”としての大きな器が必要です。
人生は刀を振るような一瞬一瞬の積み重ねであり、武道で学ぶかのように一瞬ごとを真剣に向きあうことが、精神的成長の近道なんだと思わされました。
(ちなみに黒澤さん本人は、寂しがりとヤンチャさを兼ね備えた不思議ちゃんです)
黒澤さん、設立20周年おめでとうございます!
黒澤さんの映画レビューを参考に映画を見に行くと、いつも良い映画でとても感謝してます!
これからも黒澤さんが新しい境地を斬り開いて行くのを楽しみにしています。
情け深くて、冷徹。挑発的で、思索的。理想家で、現実主義。権威への反逆と、本物への敬意。和装に、ブーツ。戯れながら、真剣。
数々の矛盾をケレン味たっぷりに自ら斬り結ぶスタイル、それが黒澤雄太の本質的な魅力だと、僕は思う。
四半世紀来の友人より心をこめて、道場設立二十周年、おめでとう。
黒澤師範とは2014年10月4日に大分県別府市で行われた共通の友人が主催したイベントでの共演で知り合い、師範は居合の演武、僕はロックバンドでそのステージに立った。
その日、あらゆるパフォーマーのいる中でも師範の試斬は圧巻だった。
聞けば、僕とは同い年。その後はずっとSNSで繋がらせてもらい、おそらくだが、お互い似た匂いを嗅ぎ取っている。
そう、我々は“一度会っただけの同士”である。
つづけるって、やめないこと!
雄太さん、私はいつも初めて会った日のことを覚えています。
私の友人コリーヌは私に、雄太さんとその芸術を紹介するドキュメンタリー映画のリリースに出席するように私を招待しました。
それはずっと前、赤坂のどこかでした。 印象的なスローモーションイメージを持つ白黒フィルム、
セルジュ・ゲンズブールについて語る雄太さん、そして彼にアイルランドの血が混ざること、それは力強い映画で、彼はまるで別の惑星から来たロマンティックなキャラクターのよう。
真実の師範でありながら、詩人でもあり、とても若く賢明だ。
映画の後に彼に紹介されました。
私はすぐに彼の眼の中に、野生のオオカミのような金色の輝きを認めました。
その後、一緒に東京の夜を歩き、話をし、私は魅了されました。
その後、何年もたちましたが、私の賞賛と尊敬の気持ちは変わりません。
雄太さんのような深くて正直な精神に出会うことは稀なことです。
雄太さんの動作は息を呑むような体験です。
それは時間が止まるように、空気が光になり、静寂が訪れ、踊るように舞う剣尖から鳴る刃が空気を切り裂く音、その時の雄太さんは、精霊あるいはシャーマンであり、物語を紡ぐ人。
彼は枯山水を構成する岩のごとき鉄人であり、恐れることなく夢に向かって邁進する。
彼に瞑想修行するための洞窟に連れて行かれたことがある。それはとても不思議な体験で、時を超越した有と空が同時に存在する空間だった。その穏やかな暗闇の中、彼は菩薩のエネルギーと一体化していた。
私は雄太さんのパリ・カルティエ現代美術財団での演武を実現させました。それは私の大きな満足感を得た仕事の一つです。
また、私は彼をギメー美術館に紹介して、日本刀のコレクションの修復など、関係が持続することを望んでいます。
私たちは東京で会うときの秘密の場所があって、そこでお喋りにふけることがあります。
雄太さんは私の兄弟のようで、彼が私を仲間だと感じていることを誇りに思います。
道場設立二十周年のお祝いにと、この度寄稿するにあたり横浜道場にお伺いし主である黒澤雄太氏に素朴な問を投げかけてみた。
「言葉というものは人を救うこともあれば、一方では人を傷つけもし、時には命さえも奪うことがある。物事には常に陰陽があるけれども、本来武器として発達してきた刀から学ぶ陽の部分にある要とは何でしょうか。」すると答えは「時間と、そして活(いかす)ということ」だという。
五百年、千年という長い歴史を持つ日本の刀。膨大な時間を経てもなお変わらぬ斬るという動作の中に見出せる感覚や手応え。先人達が築いてきた伝統的な身体用法と向き合うことで得られる自己との対話は真剣ならではの価値ある時間であるという。歴史の積み重ねは確かに大きい。自分も笛吹きとして江戸時代や鎌倉時代から伝わるという民俗芸能の楽曲に息を通す時に、その時代に生きた人間と和合できたような錯覚を得ることがある。きっと武徳院の身体術には現代社会に活かせる学びが多いに違いないと推測できた。
実のところ、黒澤氏とは同世代であり二十年近く親交があるものの、世間話しや趣味の話に費やしてしまい今回初めて真面目に刀についての語りを聴いた。
ふと、鈴音のような笑い声が道場に響いた。声のほうへと目をやれば可愛いい袴姿の幼子の練習生が居る。稽古の始まる前のほんの少しの時間を好機とばかりに無邪気に道場内をトコトコと駆け回っていた。
「はいはい、始めるよ、ここに座って挨拶して」と促す友の横顔は師範の顔になっていた。
雄太さん、道場設立二十周年 誠におめでとうございます。閉塞感の否めない今の世の中で武徳院という磁場に明るい未来を感じました。これからのさらなるご発展を祈念致します。
『長月の紅葉の上に雪ふりぬ
見る人誰かことの葉のなき』
異中異、同中同。行布門のようで円融門。雪のように真っ白な
剣士。黒澤雄太。
日本武徳院道場開設20周年、おめでとう御座います。
揺るぎない集中力と不動の精神力、一瞬の閃光と共に振り下ろされる真剣。
その姿はかつての日本人の大和魂を蘇らせます。
益々のご活動を心よりご祈念申し上げます。
黒澤さま
日本武徳院設立20周年、おめでとうございます!
師範と出会ってから
幾度試斬を撮影したことだろう
片刃の鎬造りで、弓なりに大きな反りがある我が国独特の刀剣は、平安時代の後期(11~12世紀頃)に成立したとされます。
それ以来、日本の刀剣は、刃物としてはもちろん、美術品・宝物としても高い評価を受け、現在まで伝えられています。
かつては常に傍らにあり、日本人の精神文化の象徴ともいえた日本刀ですが、残念ながら、今は身近なものではなくなりつつあります。
日本武徳院は、身体性を伴った刀の遣い方はもちろんのこと、刀の歴史や鑑賞の仕方やなどの講義もし、総合的に日本刀文化を学べる道場です。