小学生で特別授業

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令和元年12月12日、横浜にある私立小学校の六年生にむけて授業をした。

内容は、子供たちに日本刀の素晴らしさを感じてもらい、それは過去のものではなく、現代でも武道の修練という形でしっかり残っているし、それを次代に繋げなければならない使命があることなどを、わかりやすく伝えることだった。

まずはじめに、日本刀というのは武器の側面だけではなく、宝物や神器としての側面もあること、だから易々と人を斬るものではなく、アニメやドラマのように、次々と容易に斬れるものではない説明をした。

次に、現代の武道において斬るということは、目的ではなく、修行や修練のための手段であること、そこを間違えると小手先技で何とか斬りができた、できないなどの、いかにも低俗な部類に堕落する。

そんな卑賎なことであれば、日本刀でやる必要もなく、またそのような下品な精神で刀を扱うのは、日本刀千年の歴史に対して大変失礼である話をした。

では、日本刀をどのように扱えばよいのか、これを武道演武と、生徒も参加する刀剣鑑賞のふたつに分けて、目の前で実践して授業をした。

まずは演武だ。

これは稽古も演武も同じだが、私は斬る前に必ず真言を唱える。

十分に気息充実したら、おもむろに剣を抜き、一刀両断に斬る。

今回は一本巻を数本と、直径約60センチの太巻、それから型通りの介錯の演武をした。

次に1クラス男女4名ずつ選抜された生徒たちに舞台に上がってもらい、作法通りの刀剣鑑賞をした。

刀に敬意を持ち、きちんと正座をして礼をすること、刀を受け取ったら決して喋らず、刀の重みを感じること、反りの美しさや刃の鋭さをみること、終わったら刀を返し、また礼をして去ることを、ひとりひとりが折り目正しくできるようにした。

生徒たちは、刀を持つのはもちろん初めてなので、緊張しただろうが、みんな立派にできて見事だった。

その後の休憩時間で、鞘に入ったままの刀を希望者に持たせて欲しいと先生からのリクエストがあった。

そうしたところ、全員が希望し、列をなした。

せっかくの機会なので、見学に来ていた父兄の方々や先生方にも刀を手にしてもらった。

そして質疑応答の時間となった。

こういう時は質問が来なくて困ることもあるが、今回は次から次へと質問が途切れることなくきて、生徒たちの興味の深さがうかがい知れた。

その後、生徒たち一人一人が書いたお礼のメッセージカードを送っていただいたが、その中から印象に残ったところをいくつか紹介したい。

まずは、日本刀の重さである。これは物質的な重さもあるが、「ずっしりと日本の歴史を手も持っている気分になった」という子もいたので、歴史の重みも感じているだろうと思われる。

次に、演武中の静けさである。

これは事前に先生から、小学生なので、もしかしたら静かにできない子がいて迷惑をかけるかもしれないと心配されていた。

しかし実際は、生徒の感想の中でも「学校では初めて感じる静けさ」とあるように、一種異様な静けさでもあったようだ。

なぜそうなるかというと、それも生徒の感想にある通り「集中力の高さ」が伝わったゆえだと思う。

その集中力を生むのは、私の場合、真言を唱えることだ。

この真言については、質問にも感想にも多く取り上げられ、生徒からの関心の高さが際立っていた。

魔法の呪文のような捉え方がなきにしもあらずだが、真言というのはある種の力を持った言葉、音の羅列なので、こういう捉え方もあながち間違いではない。

さて、実際に斬る場面については、すぱっと斬れてすごいとか、あんなに太いものが一刀両断に斬れるなんてなど、老若男女、洋の東西を問わず、だいたい同じことを感じるようである。

斬った後の残心については、授業の中で、残心は供養であり、回向であるとふれたこともあり、「残心が大変見事で、心が浄化されました」との声もあった。

斬った後の畳を持ち帰って、門松にしたクラスもあったようだ。

「これを機会に日本人としてもう一度、日本刀などの文化を見直していきたいです」という感想もあり、今回の演武の意義、ここに極まれりと、大変うれしく思った。

日本刀や日本文化を正しく伝えることは、今後ますます重要になってくると思う。

今回の小学生への授業で、子供たちにも、いや、子供たちだからこそ、変な先入観なく、直観的に伝えることができると確信した。

今後もご縁があれば、このような演武は続けていきたいと思う。

日本武徳院殺活自在流

黒澤龍雲

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